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  • 執筆者の写真Kyoko Akimoto

帰国前日の出来事: 2020.3.17

2020年3月17日


COVID-19がロンドンでも広がり始めていた。


母親の強い希望に押される形で日本に戻ることを決めた。帰国前日、家族にちょっとしたお土産にヨークシャーティーを買おうとニュークロスゲートの近くにあるスーパーに立ち寄った。入り口付近にはたくさんの人が食料品でいっぱいの買い物袋をさげていてものものしい雰囲気だった。3月だというのに春の雰囲気は全くなくて、曇り空がいつも以上に陰気に感じられた。スーパーへ続く通路の脇に下半身を青い寝袋に入れた男性が座り込んでいて、通り過ぎる人全員に「チェンジ・プリーズ」と物乞いをしていた。私は彼のために立ち止まることはできなかった。今は考える余裕もないし、あとで帰る時に彼に小銭をあげるか考えようと自分にいい、通り過ぎた。スーパーマーケットに入るとまず目の前に飛び込んできたのは空っぽになった広い生鮮食品売り場だった。日持ちのするパスタや小麦粉、それからトイレットペーパーが売り切れているのは予想していたが、野菜や果物まで売り切れている様子に唖然とした。スーパーマーケットのような身近な場所がこんなに不安を掻き立てる場所になるなんて思いもしなかった。コーヒー・紅茶売り場を覗くと、ヨークシャーティーも売り切れていたので、とりあえず代わりの紅茶を一箱買い、さらに憂鬱な思いで店を出た。ここで学ぶためにたくさんの準備をして、貯金を切り崩しなんとか、ここでの生活に慣れようと頑張ってきたのに、このままロンドンを離れたくなかった。けれど、気管支が強くないことをわかっている自分が家族と離れてこの状態でここに留まるのはあまりに辛いしおそらく私には精神的に堪え難いともわかっていた。そんな思いが交錯して疲れ果てていた。ふと顔を上げると、先ほどのホームレスの男性が同じ場所に座っているのが目に入った。どうすればいいのか、またジリジリとした思いに胸を締め付けられるような感覚が広がる。私の前を歩いていた金髪の女性が彼の「チェンジ・プリーズ」に対して、「ソーリー、メン」と答えていたのが聞こえてきた。私にはそのような身のこなしは身に付いていなかった。丁寧に距離を保った応対は何年かここに住むことで身につくものなのかもしれない。私は再び無言で彼の前を通り過ぎた。立ち止まり、疲れ果てたような表情の彼に少しでも小銭を渡したいという気持ちとウィルス感染への警戒や、私自身が不安でいっぱいになっている思い、そして、他の人と違うことをすることへの抵抗感がせめぎ合っていた。どうすればいいのか、自分でもわからず、彼から見えない場所で財布を出し、小銭を手に出した。けれど、どうしても踏ん切りもつかず、結局、少し暖かいところで考えようと、すぐ近くの店に入った。暖房の効いた店内からガラス越しに彼を見るとものすごく、遠く感じた。店内を見渡すと子供服売り場が目に入り、私は1月に生まれたばかりの甥っ子のことを思い出し、ベビー服をお土産に買うことにした。小さくて可愛らしいベビー服を見ていると今さっきまでの憂鬱が嘘のように幸せな気分に浸ることができた。かなり悩んだ末、ベビー服のセットを一つ選び、会計を済ませて店を出ると、先ほどのホームレスが誰かと話していた。私は、もう彼につながりを感じることもなく、今更彼に小銭を少し渡そうが渡さまいが、自分の中に偽善を感じるのだから、もうこのまま立ち去ることにしたのだ。この経験は時間が経った今でも思い出すたびにジリジリとした胸の締め付けが広がる。

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